今この目の前の楽園で、ただ心地よく笑ってくつろぐこと。それがわたしの命の役割。

昨日はひさしぶりの良いお天気で

地元のホテル暖香園さんのレストランでハンバーガーをテイクアウトして

 

夫のジョーさんと、娘と3人で

近所の川べりで、食べました

 

ジョーさんに「同じ顔してる」って言われた写真、ほんとに同じ顔してる笑笑

 

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川にはカモさんがいっぱい

 

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カモさんに餌やり(持ってたおせんべい)

 

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娘さん、少し前よりもずっと上手に遠くに投げられるようになっていました

成長がとても嬉しい

(あとでインスタに動画あげますね)

 

 

 

わたしは今、楽園にいる

 

 

 

わたしの仕事は

 

この目の前の楽園で、

 

ただ、心地よく

 

笑ってくつろいでいればいい。

 

 

 

前回の記事の続きです◎ 

 

justiam.hatenablog.com

 

 

 

一年前、カウアイ島から日本に帰るその日

一緒に過ごしたオーラソーマの先生である妃出子さんが

マヤ暦を見て教えてくれました

 

そしたらわたしは

「ただ存在してればいい人」なんだって。

 

赤ちゃんのように、笑ってただそこに存在してれば

それが周りも幸せにする存在なんだ、って。

 

その頃は、まだ出産してすぐ仕事もして

夫のジョーさんも固定的な収入がない状態で

 

ただのオンナに戻る ってテーマではじめたブログから仕事が軌道に乗って

 

結局なんだかいそがしくしてた

 

自分ががんばらないと、って結局どこかで思ってた

 

がんばってる自分、何か結果を出してる自分に価値がある、って再び思ってしまってた頃だった

 

だから、そんな自分がそのままただ存在してればいい、って

 

そうあれたら嬉しいけれど、

現実は程遠いような気がしてた

 

けど、前のブログでも何度か書いたことがあるけれど

 

帰国後、「今ここの目の前の楽園にくつろぐ」ということばを発信してくれたのも、

妃出子さん。

 

どちらもそのときのわたしには、全然ほど遠い理想。

 

でも、どちらもわたしのなかで、

 

この一年

ずっと忘れたことのない

 

すごく大事な指標のようなことばになりました。

 

そうありたい、と。

 

それが答えで真実だって、どこかでずっと感じていたから。

 

 

そうしていま、一年越しで、

心からそう感じられている自分に出逢えたこと。

 

 

世の中はまだまだいろいろなことが起きているかもしれないけれど

 

わたしもまた、その世界の中に生きていて

外出がなかなかできなかったり

影響を受けていないわけじゃない。

 

でも、わたしのいま、目の前の世界は楽園だと

 

何をしてもしなくてもいい、

 

好きに自由に生きていい、

 

ひとつの問題もほんとうはない、

 

 

そこで肩の力を抜いて、笑って心地よく過ごしていれば

それでいい(それがいい)と

心から思えるんです。

 

 

そうしてただ生きることが、わたしの命の役割だって今は感じています。

 

5年前、ふとこころに降ってきた「ただのオンナに戻ります」というキーワード

そのブログ

 

ちゃんと意味があって、今につながってた。

 

やっぱりずっと、答えは示されてた

 

 

そしてカウアイ島から帰国した一年前とは、確かにいろんなことが違うけれど

 

でも、そう思うことができなかったこの数ヶ月間と今が

何か変わったわけじゃない。

 

外側の変化じゃない

 

わたしの内面が、

そう思える(受け取れる)準備が整った。

 

今までの出来事、

良いと思えることも、悪いと思えることも

みんなこの準備を整えるために導かれてたこと。

 

 

そんなことがどんどんわかってつながって、

軽やかになっていく日々が

 

今、とても嬉しいです。

 

今日もとてもしあわせな一日。

 

この楽園に、心からくつろいで過ごします◎

 

 

カウアイ島から一年。一年越しに受け取ることのできたもの。

明日、娘が2歳と3ヶ月になります◎

 

そして一年前のちょうど今日から数日後

 

コロナがいよいよ大流行しはじめて、

渡航禁止の国が次々と発表されたり、逆に観光客の受け入れをシャットダウンしはじめる国もどんどん出て

海外行きの航空会社も次々と便を減らしていく中で

 

娘が当時1歳3ヶ月になって数日経ったころ

娘の面倒の一切を旦那さんにお願いして

 

わたしは一週間、日本を離れて

ハワイ諸島の中で最古の島と言われるカウアイ島を訪れ、

 

「宇宙元旦」と言われる春分の日の朝日

 

カウアイ島の海で迎えることが、できました。

 

※うち、初日の一日はオアフ島に一泊。

 

 

帰国して羽田空港に降り立ったその日に、

「ハワイからの入国(帰国)者は2週間の外出禁止」等の決まりが発表されたほど、

 

ギリギリの中、すり抜けるかのように何事もなく行って帰ってくることができた、

今思うと信じられない奇跡の旅。

 

実家の神奈川にいる両親も、日本で日々移り変わるニュースを目の当たりにしながら

 

「(この時期に行って、帰ってきて、そしてハワイ旅行者に関する措置発表があったその日にスルリと帰国してくるって)

あの子はほんとに強運だねえ。。。」

 

と話していたそうです。

 

 

ほんの数日、行きと帰りの日がそれぞれずれてたら

カウアイ島を訪れることも、

逆に日本に予定通り帰ってくることも

できなかったと思うけれど

 

無知ほど強いものはなく、

 

もともとニュースを見ない環境(※テレビ無い)

 

コロナが大流行、と情報としては知っていても

 

わたしの眼の前のリアルな世界は

 

かわいい娘

 

夫のJOEさん

 

窓を見やれば広い畑の自然、緑

 

そして伊豆・伊東という地域柄

 

(すでにこのとき伊東を訪れる観光客はどんどん減り始めていたと思うけれど

もともと都会と違って人が多い地域ではないので、

日々の生活の中では何も変わらないように映っていました)

 

 

そういう環境の中で

もともと大の怖がりのわたしが、

 

コロナが大流行、ということには全然リアルさを感じず

 

恐怖や迷いのような感情が生まれることはないまま

 

帰国のときだけ、

 

「ウィルス持ち帰ってたらどうしよう(周りに申し訳ない)。。」

 

というくらいの気持ちで。。。

 

 

そして何よりも

実家の両親

夫のジョーさん

娘をいつも遊びに連れて行ってた支援センターの保育士さん

その他、地域のつながりある方(SNSでもつながってる)

 

誰一人として

 

「こんな時期に海外に行くなんて」

 

っていう、嫌味や、止めようとするエネルギーや、どうなのって視線

 

(特にわたしは1才児を一週間も置いておいて、という前提の中にもかかわらず)

 

発する人が、

 

ほんとうに一人も周りにいなかったのです。

 

 

事前にSNSのグループでつながっていた

一緒にカウアイ島に行く予定の人たちの中には

 

友人に諌められたとか、

 

会社からものすごい圧力かかっているとか、

(それによって帰国後も、東京から地元まで帰ることができず、都内のホテルをしばらく転々としていたとのこと)

 

ついには前日に、行くことを辞めると決める人まで

(これはもちろん他の事情もあったのかもしれません)

 

 

そして身近なつながりでも

その時期、海外に行く予定で、諦めた人すらいたのに、

その人も含めて、

 

見事にだれも批判&反対しない

 

ものすごく応援&楽しみに思ってくれている感

 

 

もともと嫌になるくらい、

人の感情に敏感に察知してしまうわたしが

(鈍感ならばともかく^^;)

 

ひたすらにこんなポジティブで温かい気持ちばかりを感じていました。

 

お世話になってる保育士さんたちも、みんな。。。

 

ほんとに、

 

「”世の中、ママに厳しい”とか、

ぜったい嘘だわあ。。。」

 

そう確信するほど

わたしの体験を楽しみに、

そして応援してくれる気持ちばかりが伝わる渡航前の日々でした。

もちろん、戻ってきてからも。

 

(そしてこれは余談ですが、今もなお。。。

母になって、子をもって、2年と3ヶ月がもうすぐ経とうとする今も、

変わらず感じている感覚です。

何をやっても、ずっと、応援され楽しみにされている感しかない。。。)

 

 

でもこれも、もしかしたら、

数日、数週間、出発と帰国が後にずれていたら、

こうはならなかったと思うと。。。

 

ほんとうに不思議な導きでした。

 

 

けど、

初日のオアフ島で宿泊した、

カハラホテルのレストランで

 

※そして余談ですが、この半年後ほどに、日本初のカハラリゾートがオープン・・☆

日本のそれとはだいぶ雰囲気が違うなと感じたけれど、

これも不思議なタイミング。。☆

 

 

集まった8名のメンバーと、ディナーを通して自己紹介をしたときに

 

一年経って、今だから書けること。

 

実はものすごく強い

 

場違い感

 

を感じてしまったんですね。

 

 

わたし、やっちまった。と、思ったのです。

 

わたしはここに来るべきメンバーじゃなかった。

 

ものすごく強く感じたのです。

 

 

それは、メンバーが、全体的に

 

ものすごくスピリチュアルなパワーを持っている人や

そういう仕事をしっかりとされてる方が多くて

 

 

悲しいかな、

 

自己紹介やフリートークで話していることば(単語等)が

 

何を言っているのか

 

ぜんぜんわからない。(涙)

 

 

このことに、わたしはめちゃくちゃ動揺して

 

自己紹介のとき、しかも、トリ=一番最後だったので(涙)

 

部屋に戻ってから

すごく落ち込んだのを今でもよく覚えています。。(汗)

 

 

けれど

 

「カウアイ島は、誰でもが入ることのできる島ではなく、

 

島に足を踏み入れる人間を、島自体が選ぶ。」

 

(※これは、この3ヶ月前に、当時1歳になりたての娘と、夫のジョーさんと、家族3人で訪れたエジプトも同じですね)

 

 

そう言われていて、

 

事実、

上記に書いたように、出国の前日に、来ることを断念された方や

その数ヶ月前には、申込みを済ませていたわたしの友人が

このタイミングで念願の妊娠が発覚し、急遽キャンセルになったりと

 

そういうドラマも目の当たりにしていて、

 

これはほんとうのこと、

間違いのない事実だな、と感じていました。

 

(もちろん選ばれる、選ばれないということが優劣の話ではなく、

今生かということも含めて

愛と最善のタイミングがひとりひとりにあるのだと◎)

 

 

その中で、このコロナ騒動の中でも、ギリギリの奇跡のタイミングで

そして

当時、とっても場違いに感じてしまったメンバーの中でも(苦笑)、

 

わたしはカウアイ島を、訪れることができた。

 

(でもその「やっちまった」感を感じた時点では、まだ、オアフ島にいたので、、、

翌日、何かが起きてわたしだけとんぼ帰りかな、というのはなんとなく覚悟していました。。

でも、無事に足を踏み入れられた。。。笑)

 

 

しかも、以前のブログでも書きましたが

カウアイ島で過去の勤め先の先輩に偶然再会したり

 

不思議な感覚を体験したり、

 

そこで教えてもらうことのできたボディワークを通じて

わたし自身の中にあったものを、

癒やすためのツールを得ることもできたり、

 

わたしなりにも、いろんな”完璧”を体験していきました。

 

 

でも、トータルでは、ほんとうはずっと思ってた。

 

海外旅行に行ったことなんて、小さい頃の家族旅行を除いては一度もない。

 

英語も話せない。

 

スピリチュアルなこともほとんど知らないし、わからない。

 

そんなわたしが

この特別な島を訪れることのできたこの意味って、

いったいなんなんだろう?

 

って。

 

しかも、その3ヶ月前には1歳なりたての娘も連れて、エジプトに家族で行くという体験までさせてもらうことができて。

 

それだって、”ただの旅行”じゃない、ナイル川に4泊もしながら、神殿やピラミッドもスフィンクスも貸し切りという通常の旅行ではありえない体験です。

 

さらに娘はそんな旅行会社さんの参加者さんの中でも最年少渡航記録を更新したというおまけ付き。。。

 

 

そして帰国後はかなり早い段階で、

エジプト、カウアイ島の旅費で使い切ってしまった当時の貯金(娘のものを除く。笑)

250万円

 

何もせず、満額プラス数十万円上乗せして手元に入ってくることになり

(そして実際入ってきて)

 

もし、あのとき支払いをためらって、

自分の内側からの感覚に従わなかったら?

 

お金は倍に増えていたかもしれませんが

(でも、それもどうかな。。なんらかのかたちで結局は出ていったように思います。

もしかしたらそれは望まない出来事を通じて、だったかもしれない。。)

 

エジプトにも、カウアイ島にも、

今は行きたくたっていけないのです。

 

どれだけお金があっても。

 

「自分の準備」「自分の側が整う」ことを優先して選択して決断していたら

どれだけその「準備」が「整う」ができても

 

今は世界のほうが閉じてしまっているのだから。

 

そんな世界がもうすぐやってくるとはつゆ知らず

でもわたしは完璧なタイミングで完璧な体験をすることができたのだということ、

 

ほんとうに、導かれたのだということ、

 

そしてそれはわたし個人のためだけに起きたことじゃない

 

全体にとって必要な役割(体験)がそこにあって

 

そのために、体験させられた

 

(それはわたし自身の望みも同じくです。結局は 全体=わたし だから。)

 

じゃあその”意味”は?

 

”なんのため”に??

 

・・・

 

帰国してすぐ、Path Codeさんのブランドアンバサダーのお話が進み、

お金もないのに、その必要もなく自分のイメージのお洋服を作ってもらうという

これまた稀有な体験をさせてもらうことになったので

 

この体験の中に、

その【意味】が隠されているのだろう、と最初は思って。

 

あるいはそれらの体験を通して、またセッションをしたり、仕事をしたり。

 

そういう道が新たに展開されるのかな、というイメージでした。

 

でも今思うのは、

そういうことじゃなかった。

 

***

 

今年のお雛祭り、3月3日、

娘と夫のジョーさんと過ごして、

まずそこで、自分の中の深いところが大きく癒やされて、ゆるんだことを感じて

 

 

そしてそこから少しずつ開いていって、

今朝、一年越しのその”意味”が

 

深いところで

 

「そういうことだったんだな」

 

とわかったような気がしました。

 

 

それは、カウアイ島に訪れられたことだけでなくて

エジプトに行けたことだけでもなくて、

 

そもそも、このブログの前身となるわたしが長年書いてきたブログが

「自分を大切にする」というワードでgoogleに採用されて

長年、そこからブログの存在を多数の人に知ってもらえたこと

 

そのことがあったから、”ただ、ブログを書き続ける”ということだけで

SNS等で一切戦略のような集客のようなことをしなくても

ただ、書き続けることだけで仕事をしてこれたこと。

 

なぜだろう?と

ずっと不思議に思ってました。

 

なぜこんな有名でもなんでもないブログが?と。

 

「自分を大切にする」ことを、何度も書きながらも

そのことを、いつまで経っても一番、難しいと感じているからこそ、

自分を鼓舞するように書き続けてきて

 

でもそれは、他者にとって

果たして良いことなんだろうか?と

 

幾度も葛藤がありました。

 

自分を大切にするということが、”完成形”としてできているような

完成されたそんな人間ではないのに

 

むしろそうではないから、ブログを書き続けてきたのに

 

順位に変動はありながらも

なぜかこの5年ちょっとの間

googleに上位に表示され続けていることで

その後ろ盾があるから信頼にもつながっていること、

 

”わたしなんかが”。

 

自分の未熟さを誰よりも知っているからこそ

 

そんな気持ちがずっとありました。

 

そして自分の中に気づけば物心ついた頃からかずっとある、

 

恐怖とか、怒りとか、不安とかっていう

得体の知れないもの。

 

 

エジプト、カウアイ島から戻ってきてからは

むしろそれが噴出するかのように

よりわたしの中ではリアルに目の当たりに感じて、

 

それら眼の前のひとつひとつに必死で

さらにはアンバサダーの体験が一区切りついて、さあこれから、というときに

 

たかだか育児で、旦那さんの交通事故で(それも松葉杖で済んだことで)

 

子育てや病気や急なアクシデント

 

みんなが多かれ少なかれ通ってる道

 

そんなものにまで、敏感に感じ取って

鬱のようにまでなって。

 

一年前、与えられた体験を、導きを、

何かのかたちに還元することもできやしない。

 

 

”なんでわたしはこんなに未熟なんだろう。”

 

”なのに、場違いでも、補欠合格的な感じでも(←よもや意味不明。笑)子供がいても

周りに家族にこんなに恵まれて、行きたいところに行かせてもらえて

 

稀有な体験も、させてもらえて”

 

”でもほんとうは、こんなにダメなわたしなのに。”

 

”こんなに未熟なわたしなのに。”

 

 

ずっとそんなふうに感じていました。

 

よもや、”こんなにただのオンナでも人生良い方向にできる♡”などのんきに言えなくなるほどに、自分が恵まれすぎてることを受け取りきれなくなって。

 

 

でも、そういうことじゃなかった。

 

全部がつながっていて、

全部、そこに意味はあった。

 

与えられた体験にも、感情にも、意味があった。

 

完璧だった。

 

これで良かった。

 

全部が、つながっていた。

 

 

すごく、そのことが

やっとよくわかったんです。

 

 

一年越し

 

なんならブログを書き始めてから恵まれたいろいろな奇跡においては数年越しに

 

やっとわたしは、

 

わたしがわたしであること、

 

わたしのこの人生の

 

意味(選び取ったと感じることも、与えられたと感じることも合わせて。結局はどちらもイコールなのだけれど。)

 

そして全体の中での完璧さ

 

 

そんなようなものが、

深いところでつながった気がしています。

 

今思えば、エジプトやカウアイ島、そしてその後のこの一年間で何度か体験した不思議な出来事の意味も

 

それ以前の過去のひとつひとつも。

 

 

わたしはただ、わたしで在ればいいだけ。

 

そしてあなたも、あなたで在ればいいだけ。

 

好きに生きていい。

 

自分のためだけに生きていい。

 

そして自分を大切にすることこそが、

世界や他者のためにもなる。

 

安心して、自分を一番に大切に生きていい。

 

 

ほんとうにそうなんだ、といま、思います。

 

そのことを教えてくれる今までの経験でした。

 

なかなか娘と過ごす中で

そしてとてもいま深い満足感と至福の中で

ブログで言葉にするということのより今の毎日を大切にしたい気持ちがいまのきもちですが

また折に触れて綴っていけたらいいなと思います。

 

長文をお読みいただき感謝を込めて。

 

 

旧ブログの、最後の更新を終えました◎

さっき、2015年末からずっと続けてきたブログの

最後の記事を、更新することができました◎

 

 

アップしてみて、改めて。

 

すごーーーく感じていることは、

 

 

おつかれさま。

 

と、

ありがとう。

 

という気持ちです。

 

 

今までの自分に、

そして、それにずっと付き合い受け止め続けてくれた旧ブログに^^

 

☆ ☆

 

以前、旧ブログを手放そうと思っていたときはもっと、

これまでの自分や、歩みを、

 

もっと、否定的に捉えていた自分がいて、

 

手放したいというか、捨てちゃいたい。

 

・・・そんな気持ちでした。

 

 

それは、

 

調子にのりまくっていたときもあるし、

外側ばかりを見てしまっていたときもあるし、

人の顔色を気にしていたときもあるし、

いわゆる現実創造や変化と言われるものばかりに気持ちを取られてしまってたことも

 

たくさんあったから。

 

誰にバレていなくても(バレて、って。笑笑)

 

自分にはそれがわかるから、

 

 

恥ずかしい。。。

 

っていう気持ちが強かったです。

 

恥ずかしくて、捨てちゃいたかったんですね。

 

 

でも、今は、

 

そんなちょっと恥ずかしい自分も、

愛おしいと思う。

 

 

それだけ一所懸命、そのときのわたしなりに、

無我夢中でがんばってきたんだよ〜

 

試行錯誤の中、やってきたんだよ〜〜

 

 

って

 

頭をなでてあげたいような気持ち^^

 

全身で、抱きしめてあげたいような気持ち^^

 

 

過去の自分自身にも、それにずっと付き合ってきてくれた旧ブログにも、

 

いま、そんな気持ちです◎

 

 

お片付け、物を手放すときの断捨離の気持ちに

とっても近いものなんだろうなあ、って思います◎

 

もうお役目を終えてくれたから、

今までのあなたがいてくれたおかげで

今のわたしがいるから、って

 

感謝して、いままでありがとう、って手放す(次に魂を送り出す)こと。

 

 

わたしの旧ブログも、

わたしの魂と、旧ブログ自体の魂が

 

ずっと一緒にひっついてた。

 

それが愛だと思ってた。

 

 

でもそれをやっと切り離して、

その魂を送り出すことができたように思います。

 

 だからかなあ、

なんだかこのブログも、軽やかに書きやすいんですが。笑笑

 

もう違うと思いながらも旧ブログを続けていたときよりも、

その想いに素直になって、このブログを先に綴り始めたときよりも、

 

ちゃんと「終わらせる」との記事を公開した今のほうが

 

ずっとずっと、指先から流れ出る言葉に

 

「ただのわたしである」感覚がすごくする。

 

 

きっと、旧ブログを、むやみやたらに更新しなきゃ、って思ってたときよりずっと(笑)

 

ずっと、

 

今のほうが一緒に、

共に生きてる。

 

・・・そんな感覚がしています◎

 

 

応援してくれて、見守ってくれていて、ありがとう◎

 

過去のわたしとあなたに胸をはって、誇りに思って

これからも

 

ただのわたしを歩んでいきます◎

 

愛と感謝を込めて◎

 

叶えたい、解決したい”それ”が、ほんとの願いとは限らない。

今日は夫JOEさんが久しぶりの東京出張で

娘と女子2人、のんびりめに過ごしています^^

 

お昼はいつものお弁当を頼んで、

2階で遊びながら食べていたら、

こんなかわいいことをしていました*^^*

 

 
 
 
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※ちなみに、いつものお弁当。

今日は娘と2人だったので、

1個だけ届けていただいて

ふたりで分けて食べていました◎

 
 
 
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そんなかわいいことをしてくれる娘さんですが

昨日の記事を書いてから

彼女を通しておもったことがありました。

 

☆こちらの記事の続きになります☆

justiam.hatenablog.com

 

 

娘さんは、お昼寝をする日は、寝入る前に、

ものすごく激しく愚図ります。

 

眠たがって泣くので、抱っこをしてゆすってあげようとすると

 

「あっちー!!!(泣)」

 

と2階を指さして、反り返って泣きわめきます。

 

 

なので言われたとおりに抱っこしてあやしながら2階に行くと、今度は

 

「あっちーーー!!!(泣)」

 

と、寝室のほうを指差すので。。。

 

 

また、言われたとおりに寝室に連れて行くと、

 

ふたたび、

 

「あっちーーーー!!!(泣)」

 

 

と、

 

今度は、さっき上がってきた1階のほうを指さして

「1階にまた降りろ」と主張してくるんです。

 

そんなことをぐるぐるぐるぐる、娘がその都度指差す

実は明確でない「あっち」に移動することを

何回か繰り返しているうちに、

 

本人、眠くなって、気づいたら腕の中で寝入ってる、、、というのがお決まりのパターン。

 

 

 

これ、子供のやっていることなので

 

クスッとと笑ってしまったり、

ときには「まったく。。。」ってげんなりしてしまうことも多々あります。

 

 

でも、娘のこの行動。

 

 

すごくよく思う。

 

 

「わたしたち大人も、

 

本気でこういう勘違いをして人生を生きてることがある。」

 

って。

 

 

娘が眠すぎて、でも上手く寝れなくて、気持ちが悪くて、

 

「嫌だ。不快だ。」

 

って思っている時、

 

娘は娘なりに、本気で

 

「あっち」に行けば

 

何かスッキリする。

 

ラクになれる。

 

心地よくなれる。

 

 

そう思っているから、

 

わたし(母親)に「あっち(に行け)」と求めるけれど、

 

実際は、「あっち」っていう言葉に、明確な求めているものなんてなくて、

 

本当の娘の感じていることは

 

「眠たくて、寝たいけど、

上手く寝れなくてつらいし、

不快だし、

嫌だよ。」

 

ただ、それを上手く言葉にして伝えられないし、

自分でも、その「不快さがなんなのか」をそこまで自覚できていないから。

 

 

だから、「あっち」へ行けば、なんだかラクになれるような気がして、

 

「あっちー!!」って一所懸命伝えてくる。

 

 

けど彼女がほんとうのほんとうに求めているのは

 

「”(明確な場所なんてない)あっち”に連れて行ってほしい」のじゃなくて

 

 

その気持ち(=寝たいのに、上手く寝れなくて不快で嫌だ)をわかってほしい

 

そして

 

その気持ちをちゃんとキャッチして

 

上手に寝かせてほしい(それを助けてほしい

 

これなんです。

 

 

これのどこが、わたしたち大人の女性もやっているかもしれないことかというと

 

 

わたしたちにとっての”あっち”は

 

 

彼がほしい。

 

 

結婚したい。

 

 

子供がほしい。

 

 

パートナーにこうなってほしい。

 

 

親がこうじゃなかったら。

 

 

職場の嫌なあの人が変わったら。

 

 

 

そうしたら(=”あっち”に行けたら)

 

幸せになれるのに。

 

問題は全部解決するのに。

 

 

・・・本気で、そう思ってしまっていることがある。

 

 

だけれどそれは、

わたしの娘が「あっち(に連れて行って)」と言いながらも

 

いざ、

 

じゃあその「あっち」についた途端、

 

望みがかなったのに、

 

その瞬間

 

「(まったく別の方向の)あっち(にまた連れて行って)!!」

 

になるのと同じように。

 

 

わたしたちもまた、

 

それらを手に入れた瞬間は、確かに

 

幸せに感じたり、

問題が解決したと思えたり、

不快感や嫌な気持ちが消えたように

 

感じたとしても。

 

またすぐ、別の「あっち」を求め始めていることがあるときがあります。

 

しかも、無自覚で。

 

 

やっぱりこっちじゃなかった、とか

 

こっちはこっちで良かったけど、

それが満たされたら、

また別の不満や物足りなさや嫌なことが、目につくなど。

 

 

それはたとえば、

 

彼ができても、結婚してくれなきゃ意味がない、って思えてしまったり

 

結婚できても、今度は「妊娠しなきゃ、幸せじゃない」って思えてしまったり。

 

さまざまに愛のかたちを与えてくれている相手でも、

不満やあらばかりを見出していたり。

 

 

そうやって、望んでいたはずの「あっち」に行けても

また別の「あっち」を求めて

 

でも本当は、その心の中には、

 

「ここに行けたら解決」って言えるような「あっち」なんていうものは

本当は無い、ってこと。

 

 

そういうことじゃない、ってこと。

 

 

そこに、多くの人は無自覚で、

無意識に勘違いしたまま、

 

「結婚するためには」とか、

 

婚活、妊活、現実を思い通りにする方法、パートナーに理想の相手になってもらう方法、

 

そういうものを探し求めて深みにはまってしまったり。

 

 

でもそれがいかに、トンチンカンなずれていることかは、

 

わたしの娘の例から、感じてもらえるんじゃないかと思うのです。苦笑

 

 

そうじゃない、

 

本当にあなたの心の求めているものは「あっち」というものじゃなくて

 

もっと全然別のもの。

 

 

そしてそれは、

外にその答えや方法なんてない。

 

 

だって、あなたの中にしか、

その答え(正解)はないんだから。

 

 

だからわたしはその奥深くの部分を一緒に探ることが一番大事だと思っているし

 

だからといって、それはわたしが言い当てることではなくて

 

本人が絶対に答えをもっていること。

 

 

そしてわたしが昨日の記事で触れた、個人セッションをさせていただいたAさんに

 

「結婚したいという気持ちや、彼との関係をどうにかすることや

 

彼の抱えている問題に何かできることはないかとかんがえることは

 

もちろん気になるけれど、枝葉の部分であって、

 

そこに問題と感じることの解決があるわけじゃない」

 

 

というようなお話をしたのはそういう意味であります。

 

 

わたしの娘が「あっちに連れて行って!」と表面上は本気で言っているからと言って

そこに娘が満たされる答えがあるわけじゃないから、

 

その気持ちには寄り添いつつ(ここで言うなら行けって言われたほうには一応行きつつ)

 

けど、ほんとの望み

 

「寝たい。」←たぶん。笑笑

 

 

・・・わたしはそこを見て、

 

そこをサポートしてあげることを、やってあげることなんです。

 

 

そしてこれは娘やお客さんだけに限らない

 

わたしも、わたし自身にいつも気を配り、やっていることです。

 

 

わたしが「こうしたい」と意識上、思っていることが

必ずしも

わたしを満たしてくれる本質的なこととは、限らないから。

 

 

その奥を知ろうとすること

そしてそれを感じること

 

それが、ほんとうの意味での自分を大切にしていくことだと、

思っています◎

 

 

ひとりひとりにとっての”それ”を紐解き叶えるお手伝い

=個人セッション受付中です^^

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あなた自身の中の”小さな子”からの愛。どうか目をそらし続けないで。【個人セッションレポ】

昨日も電話での個人セッションのお仕事で、

 

午前中に夕食の準備をし終えて

 

午後は娘を預けて

 

2時間ほどお話を聞かせてもらいました。

 

ドタバタな日常の中でも

 

やっぱりわたしは自分自身の人生と

 

一所懸命向き合おうとされてる女性がとても美しく感じて

 

そのことに、少しでもかかわらせていただいて、

お役に立てる何かを提供できることは

 

わたしにとっては、とっても幸せなことだなあ、と

 

改めて深くじーんとした想いでおります。

 

 

今回お申込みしてくださったのは

以前、「女性のための生き方講座」という講座を

娘を妊娠中、伊豆の自宅で開催したときの卒業生のAさん。

 

個人を特定しない範囲でざっくりとだけ書かせていただくと、Aさん、

 

お付き合いしていて、結婚したいとも思っている男性との関係について悩んでらして

 

そんなときに、久しぶりにわたしのブログを

過去のものからぜんぶ読み返してくれたのだそうです。

 

そしてそんなタイミングにセッション再開のお知らせがあって

何か意味があるのじゃないかな、と思って申し込んでくださったとのことでした◎

 

久しぶりの再会(お電話で声を通して、だけれど)

わたしもとても嬉しかった◎

 

お話伺って、Aさん、

この一年とちょっと、つらい時期が続いていたようなのだけれど

講座をしていた当時、わたしが中心としてお伝えしてた「書くこと」を通じてずっと

自分の気持ちと向き合ってこられてたこと、

すごくよく伝わってきました。

 

ずっと、がんばってこられたんだなあ、と。。。

 

 

 

これはたぶん、Aさんに限らず、だと思ってますけど。。。

 

 

みんな、この一年とか二年は、何かしら試練のような出来事、

起きていたという方少なくないかと思います。←かくいうわたしも。

 

 

これは大きな時代の転換期というのもあるし、

 

自分と向き合ってきた方にとっては、それは、どんなに問題と思えることでも

後退ではけっしてなく

 

むしろ、自分を大切にしようと

自分を受け入れようと、

 

自分自身と向き合ってきたからこそ、

 

そしてそのことによって、ある程度、

 

たとえば彼ができたとか、

しんどかった仕事が落ち着いてきたとか、

 

そういうふうに、環境や状況がまず、落ち着いて、整ってきて、

自分の内外に少し、

 

ホッとした気持ち

 

ゆるむ気持ち

 

落ち着ける場所

 

凸も凹もある、ありのままの自分を許せる気持ち

 

 

得られてきたからこそ。

 

 

そんなふうになってきた”あなた”だからこそ、

 

自分の中の傷ついた小さな子どものような、もうひとりの”わたし”が、

 

 

「今なら、わたしのことも、

目を向けてくれるんじゃないか。」

 

 

 

「ずっと、

 

”出てこないで”

 

 

”悲しすぎて、苦しすぎて、

 

感じたくないから、見たくないから”

 

って、

 

身体と、心の奥深くに

押し込められてきた”わたし”でも、、、」

 

 

 

「今なら、

 

 

”本当は、苦しいよ。”

 

”本当は、つらいよ。”

 

 

そう声をあげたら

 

 

耳を、傾けてくれるかもしれない。

 

気づいて、くれるかもしれない。

 

 

 

気づいてほしい。

 

耳を、傾けてほしい。

 

受け入れてほしい。

 

 

他ならない、”わたし自身”に。」

 

 

 

・・・そんなふうに、”あなた自身”に

 

一所懸命、SOSの信号を出しているということなんです。

 

 

いったん少し、落ち着いた状況を自分自身の世界に創造することのできた

本当は強いあなただからこそ、

 

今度はそこにあえて、

問題とか、苦しいと感じられる出来事や関係性のようなものを創造することで

 

 

”わたしに気づいて。

(ほんとうは、こんなに傷ついているわたしがいるんだよ)”

 

と、

あなたの中の小さな子どものようなあなたが

”自分”に気づいてもらうきっかけを

一所懸命、外側の世界を動かして

作っているんです。

 

だからほんとうは、目の前に今起こっている問題や、

その誰かとの関係性をどうしたらいいか?

というのももちろんとっても気になることではあると思うんですけど

 

そこには本当は、問題(と感じていること)の解決策はなくて、

 

 

その自分からのSOSに気がついて、

目を向けるために立ち止まって、

 

その、

”おおもとの根っこ(タネ)”となっているであろう苦しさや悲しさや怒りというようなに”小さな自分”

 

に気づいて、

 

ちゃんと、一緒にそのときの気持ちを感じて、

流して、受け入れてあげること。

 

 

そうすると、まず心が本当に安らぐし、、、

 

あとは外側の世界も自然に問題やこわばりがほどけて展開していくし、

”そのためにいま、何をしたらいいか”も

 

自分の内側からちゃんと、

その答えは自ずと見えてくるんです。

 

 

だから、わたしがセッションを通してすることは、

その小さな子どものようなあなた自身の翻訳者、

通訳のようなこと。

 

 

”その子”が起こしている現実だったり、あるいは感情の苦しさというようなものなので、

 

そこにどんな意図だったり、愛が隠れているのか

 

御本人が見えていない(気づけていない)部分を一緒に紐解いて、探って、

 

 

あとはその悲しみや苦しさを受け入れて、

(それが本当の「自分を大切にするということ」。)

 

受け入れるということとは?というのを

 

実際に体感してもらえるよう

 

わたしなりにお伝えしています。

 

 

Aさんにもそのような感じでセッションさせていただいて、最後、

 

 

「心の深いところが喜んでいるような感じ」

 

 

「真穂さんが最初の(申込み後の)メールで”大丈夫です”って言ってくれて嬉しかったけれど、自分でも

”ああ、きっと大丈夫なんだろうな”と思えた」

 

 

とゆるんだ声色で伝えてくださったとき

 

やっぱり本当にわたしも嬉しかったです。

 

 

そうなんです。

大丈夫しかない。

 

 

どんな人も、絶対に、

 

自分から自分に愛されているし、

 

だから大丈夫しかないし、

 

 

目をそむけ続けてしまったその”わたし”も

あなたを取り巻く”世界”も、

 

それでもなお、

ほんとうに優しくて、

 

それでもなお、

あなた自身を

ほんとうに愛してくれている。

 

それこそ、実の子どもみたいに。

 

 

それが真実だから、

どうかその愛に気づいて、感じて、

 

ゆるんで、安心して

行きていける女性が、ひとりでも増えたらいいな。と思います。

 

だってそれは、

本当に心地よく、深い深い幸せを

自分の内側から、感じられることだから😌🍀

 

 

Aさん、素晴らしい姿を見せてくださり、

貴重なお時間をありがとうございました☆

 

個人セッション、ご希望の方は

こちらよりお申し込みください。

 

 

愛は、変わらずずっと、差し出されてた。

今日は娘さんと夫のJOEさんと一緒に

海岸近くの大きなスーパーへ買物に行ってきました🌊

 

大人の足で歩いても、20分強かかる距離のお買い物。

 

普段、わたしと二人で出かけるときは、ほとんど自分の力で歩いてくれる娘さん(2歳と2ヶ月)なのに

 

パパさんがいると、

わたしに余裕があるのがわかるのでしょうか…

 

抱っこをせがんできて、

結局、パパさんがいるのに、二人のときよりもクタクタの買い物になって、

 

そのまま真っすぐ帰るとイライラ&疲れモードをそのまま引きずってしまいそうな気がして

 

それが嫌だなあ、と思ったので

買い物袋のほうは夫さんに任せて

 

わたしと娘はそのまま、

いつもお世話になっている

近所の子育て支援センターに遊びに出かけました🍀

 

 

ここはいつも、わたしと娘が一番よく出かける遊び場で

常時、2名ほどの保育士の先生方がいてくださり

おもちゃもたくさん😊

 

去年までは、娘さんがおもちゃや先生と楽しむことができるように、という気持ちで遊びに行くのがわたしの中の当たり前だったのですが、今は

 

わたし自身が先生たちと、お話したいとき。

 

そうすることで、わたし自身が、気分転換できたり、リフレッシュして、また、気持ちよく娘と過ごすことができるように。

 

そんな気持ちでいて、

そして先生たちも、

 

子どもたちだけじゃなくて、子供と過ごす、ママさんたちが、少しでも子育ての気分転換になれるように、という想いでやってくれているのが伝わるので、

 

これまでは、他の親子さんで混んでいる午前中に、訪れることが多かったのが

今年からは

できるだけ空いている(もとい、先生たちとゆっくり話せるチャンスの多い)午後に、訪れるようになって。

 

※娘さんの、生活やお昼寝のリズムが変わってくれたのも、良きタイミングでした☆

 

今日も、最初の一時間くらいは、他の親子さんがいなかったので、

もう一人の先生が娘と遊んでくださるのをいいことに、

 

わたしは、娘をほとんど放っておきながら(笑笑)

もうひとりの先生と、

いろんなお話をさせてもらって。

 

おかげさまで、スーパーからのクタクタの状態から

上手く、気持ちを良い方向に切り替えるきっかけを、

いただくことができました😌

 

 

そんな自分と、自分を取り巻く世界を感じて、

不思議だな、と思うんです。

 

先生たちは、何も変わってない。

 

ずっと、子どもたちのことだけじゃない

ママがラクになれるように、とずっと思ってくれていて、

 

ずっと、そのこころで、門戸を開いてくださっていて、

それは何も変わってない。

 

去年までも、今年に入ってからもずっと、

差し伸べられていた手はずっと、変わらずあったんです。

 

でも、わたし自身が、自分に許可できていなかった。

 

なんだか、かまってちゃんなお母さんだな、って思われることが、怖かったのかなあ。

 

話しかけてもらえたら、OKのサインだから、話をしよう、って思っていたなあ。

 

それまでは、話しかけてもらえても、

話をしながらも、

どこか、表面的そうな、母として、一般的そうな話を

自分がどこか、選んでいて。

 

自分のほんとうに話したいことを、話していなくて。

 

そんなときは、どこかで身体もカチコチになっていた気がするんです。

 

でも、今年に入って、たくさんの

母としての、そして

ひとりのただのわたしという、人間としての

自分を見つめる時間を大切にするようになって

 

そこから、話したいことを話して、

先生たちと話したいから、出かけていって。

(一人でいたいときは、一人で娘と家で過ごして。)

 

ただ、その自分の気持ちに、素直になっただけなんだけれど、そのときに、

午後に行く、っていう選択肢がはじめて生まれて、

そこから本当に。

 

仕事のことも、家族のことも、地元の美味しいお店のことも、

でもここはちょっとどうなのっていうのもありますよねーなんて話も(笑笑😊)

 

ほんとうによく、先生たちと、話をするようになりました。

 

それは、わたしにとっては表面的に、ではなくて、人と人として。

 

そんな風に関係を紡いでいけるようになっている気が、今、すごくしています。

 

でもたぶん、先生たちからしたら、

何も変わってないんだろうな。。。笑

 

わたしが勝手に力んで、閉じていたこころを

 

わたしが勝手に、ゆるんで、開くことにして、

 

どちらのわたしも、変わらず受け入れてくれていた。

 

変わらずに、愛はいつも、そこにあった。

 

だからわたしは最初から。

 

自分にとって心地よいと感じられるほうを、

素直に選べばよかっただけだったんですね。

 

きっと、あの頃は、

先生たちが、わたしの世界が、わたしに与えてくれている愛よりも、

自分がどう思われるか、自分が自分に対してどうか、

そんなことばかりを、きっと気にしてた。

 

世界を、他者を、

見ているようで、少しも見ていなかったんです。

 

見ていたのは、自分だけ。

 

気にしていたのはきっと、自分自身のことばかりだった。

 

それをやめて、

いま、すごくそんなふうに

ゆるんだ自分自身で、先生たちの(自分自身の世界からの)愛を受け取ることができている自分が心地よくて

 

先生たちにも、もちろん感謝で、

ここで子育てできている、豊かさを、よりいっそう、感じられていて、

 

とても幸せで、嬉しいです。😊